鉄道小バザールとは、サラリーマンによる海外乗り鉄っちゃんの記録集です。
ベトナムを縦断することは以前から考えていましたが、香港から線路で繋ぐという、くだらないことを思いつき、トライしました。2000年の乗車体験であることをあらかじめご了承ください。
初掲載:2015年8月 Last Update2015年8月
06:00 ドンダン | 11:30 ハノイ | K5次 Soft Berth | 169km (M2次) |
21:00 ハノイ | 翌09:20 フエ | S1 Soft Berth | 688km 74.7万VND |
09:28 フエ | 12:08 ダナン | S1 Soft Seat | 103km |
12:28 ダナン | 翌5:00 サイゴン | S1 Soft Berth | 935km 101.1万VND |
1JPY =131VND 1USD=14100VND (2000年8月当時の両替レート) |
真夜中の国境越え
中国の列車を降りる。ほんの1分前まで寝台に眠っていたことが嘘のように目はシャキッとしている。時刻をベトナム時間にするため、1時間戻す。真夜中の3時30分過ぎ。こんなところは日本人などいやしない。年甲斐もなく、心細い。
駅舎で入国審査を受ける。こちらはビザがあるというのに、難癖を言いやがる。結局は賄賂の要求だ。50USDを要求してきたが、10USDで手を打った。レシートを出せというと、「後で」だって。嘘つけ、と日本語でぼやき、とりあえず正式に入国。だんだんと空が白み始めてきた。
ハノイ行きの列車に乗り込む。乗車した車両は寝台車だった。ありがたい。もう一つのベッドに女性の若い車掌が乗り込む。幼い、といったほうがふさわしいかも。その彼女がChange Money?と言ってきた。だらっと、ベッドで寝るは、同僚の鉄道員とぺちゃくちゃしゃべるは、彼女は緊張感といったものが全くない。これはこれでいいのかもしれない。こちらも、前夜を通しで眠ることができなかったので、睡眠を確保することができた。彼女には朝食をおごってもらったり、果物をもらったりもした。
列車はまさに「とろとろ」といったペースでクネクネした線路をゆったりと走る。駅に着くたびいろんな人が窓越しに物を売りにやってくる。
時々、停車駅で降りて、煙草をふかす。列車が出発する際もデッキに飛び乗る。南に向かうたび、身も、心も軽くなる。しかし、動き出した列車のデッキから写真を撮っていたところ、カメラのストラップを誰かに引っ張られた。駅に立っている良からぬ奴がひっかけて盗もうとしたに違いない。クワバラ、クワバラ…。
街並みが都会になってきた。もうすぐハノイだ。ホン(紅)川にかかるロンビエン橋を渡る。無骨な橋だが脇に道路があり、バイクや自転車・歩行者が往来している。かつて、米軍が何度も爆撃したが、その都度修復したという。自転車を追い越し、橋を渡りきる。密集した家並みを高架越しで見下ろしていると、程なくしてハノイ駅に到着した。乗客や物売りや駅関係者でごったがえすホームに降り立つ。お腹が空いてきたので、少し早いが昼食を食べに行こうか。
ハロン湾観光
ハノイにはあまり興味がなかったので、ハロン湾を目指した。バスターミナルで乗った車はワンボックス車で、乗客はてんこ盛り。3時間半かけてハロン湾へ。バイクタクシーの兄ちゃんにホテルを紹介してもらい、その日はホテルでゆっくり過ごした。夜食べたエビの素揚げがとてもうまかった。
翌朝、船をチャーターしてハロン湾を観光した。鍾乳洞の島に上陸。赤・黄・青の原色の明かりで鍾乳洞を灯す感覚は、日本人の感覚にはなじまない。ただ、海の桂林と言われるだけあって、景色は素晴らしい。
満員のミニバスでハノイに戻り、食堂で夕食。ベトナムに入ると急に「コメ」がうまくなった。腹いっぱい食べても1万ドン。当時のレートで70セント、天国だ。徐々にヌックマム(魚醤)にも慣れてきた
ガ・ハノイ(ハノイ駅)へと向かう。ねっとりした空気が肌にまとわりつき、汗がだらだらと流れる。S1列車が入ってきた。当時、統一鉄道と言われるハノイ・ホーチミン間の列車で一番速い列車だ。赤いディーゼル機関車に赤い客車が連なる。
ソフトバース(Soft Berth)、つまり一等寝台だが、中国の軟臥、日本のB寝台と全く同じと考えていい。車内に入るとエアコンが効いていて、一安心。21時ちょうどに駅を出発した。今日一日動き回ったので、ぐっすり眠れるだろう。
朝日が目に入り、目が覚める。とても気持ちがいい。窓の外には一面の田園風景が広がる。
ベトナムの列車には投石対抗のため、必ず金網がある。これが車窓風景の写真を撮るのに不便なこと、このうえない。いわゆる発展途上国によくあるパターンだが、そんなところに新幹線を敷こうと考えていることに、少し寒気を覚える。
9:20、フエ駅に到着した。
フエ観光
宿でバイクを借り、ミンマン帝廟・カイディン帝廟・阮朝王宮を巡った。ある時は中国風、ある時は植民地時代のフランス風と、異なる趣を目の前に展開してくれる。
阮朝王宮では、ベトナム戦争の爪痕がまだ残っている風景も目のあたりにした。カイディン帝廟ではスコールに遭い、帝廟の中で雨宿りして濡れた石像を見下ろす。ミンマン帝廟では、留めていたバイクがパンクして困っているところに現地の人が現れて修理するといった、古典的かつ、美人局的なパンク修理に遭い、「これも旅のエピソードのひとつ」と笑えるほど、満たされた気分になった。
ホテル近くのカフェでフランスパンと目玉焼きとオレンジジュースの朝食を摂り、駅へ。前日降りた列車の続きに乗るためだ。今度はS1のソフトシート、日本だとグリーン車に相当する。当時のベトナムは外国人料金を設定していて、容易に入手できたが、現地の人の利用よりかなり高額であった。
乗車すると、集団見合い型で進行方向の逆向きではあったが、海側だ。エアコンも効いている。しばらくして海岸線が見えてきた。手つかずの自然がそこにある。泳ぐと気持ちよさそうだ。
弁当が配られてきた。外国人料金だからついているのだろう。わかめスープがついている。日本人にはとてもうれしい。コメもうまい。
海岸線が少しずつ下がってきた。ハイヴァン峠越えが始まる。ハイ(=海)ヴァン(=雲)で、気候も風土も変わるらしい。スピードを落とし、ゆっくりと進む。金網越しで海が見える。
先頭車両を見るとタダ乗りの人々が。あんな特等席にいるなんて、正直、うらやましい。車中でバインコムと言われる餅菓子を買い(あま〜い)、ダナンに到着した。あっという間の3時間だった。
ホイアン観光
ダナンからタクシーに乗り、ホイアンへ向かった。ここは海のシルクロードの拠点で来遠橋という日本人が作ったと言われる橋もある。中国の影響を強く受け、華僑の建物が多い。街はとてものんびりしていて、すごく気に入った。笑ってしまったのは、ある邸宅を覗いていたら、TBSの世界遺産の番組がロケに来ていた。
もう一泊したい、と後ろ髪ひかれる思いでタクシーに乗りダナンへ戻る。またまたS1に乗り、ホーチミンへ向かう。車内を探検すると、ハードベッド(2等寝台)は3段式で、ベッドはほとんど板のようだった。扇風機が回っているが蒸し暑い。やはりソフトベッドで正解。
9時40分過ぎ、ニャチャンに到着。ニャチャンはベトナム随一のビーチリゾートだが、当時から海水浴で有名だった。ホームに降りると、露店が立ち並び、スルメイカを売っている。海沿いの縁日、そんな言葉がぴったりだ。列車も満員になり、騒々しくなってきた。ただ、旅行で疲れている身としては、そんなこともお構いなく、眠る。
翌朝5時過ぎ、少し遅れてサイゴン駅(ホーチミン駅とは言わない)に到着。まだ真っ暗。タクシーに乗り街中に出よう。
フエから南のチケットは、すべて駅で購入しました。2000年当時に存在していた外国人料金は、現在は廃止されています。ネットで「ベトナム 鉄道 予約」と検索すれば、いくつかの旅行代理店で手配ができるようです。ただ、多少のぼったくり料金であることはやむをえません。
国際列車(南寧⇒ハノイ)は今でも旅行会社を経由しないと難しいと思います。私の場合は、ピースインツアーという旅行会社で手配しました。
ベトナムと言えばシンカフェ
2000年当時、現地ツアーといえばシンカフェにとどめを刺していました。メコンデルタツアーで日帰りでミトーに行き、ジャングルクルーズも経験でき、食事もついてたったの7USD! ホーチミンの1日観光は食事なしですが6USDでした。
また、オープンツアーという、都市間をバスで移動することもできました。今はこんなに安くはないと思いますが、ベトナムを旅行するバックパッカーには欠かせない存在でした。
当時は、通りの北側が工事中で、そこにストリートチルドレンがかなり住んでおり、元締めがストリートチルドレンをかくまうかわりに、スリ・ひったくりをさせていたらしい。
トリップアドバイザーによると、今ではヴィンフンヘリテージホテル(Vinh Hung Heritage Hotel)と言うように改名されたようですが、とても趣のある宿でした。2階の通りに面したベランダから眺める景色は、本当にタイムスリップしたような面影がありました。
ホイアンは現在はビーチリゾートとして有名ですが、ホイアンという街の趣は、やはり街の中でないと、味わえません。特に、夜のホイアンの、ほんわかしたムードをそのまま部屋にまで持ち帰ることのできる宿は、ほかにはないでしょう。
しかし、乗車したK5次はその特徴を生かさず、ドンダンで車両自体を乗り換えます。
直通列車つまり、乗り換えないでハノイ近郊に中国から向かうには、別の国際列車T8701次に乗車すれば可能です(ただし、ハノイ直前のザーラムまで)。私が旅行した2000年には、まだ、この列車はありませんでした。