ヨハネスブルグ(11:30) | ケープタウン(11:00) | ブルートレイン・15E 1,210ZAR | ||||
1ZAR(ランド)=44.42円(1992年9月当時のレート 2015年のレートは1ZAR=10.00円) |
無謀にも殆ど情報のないまま南アフリカへ
「地球の歩き方・南アフリカ」も、当時は発行されておらず、今では情報ツールとして必須のインターネットも1992年頃は全く知られていない。南アフリカの旅行情報は唯一、「ロンリープラネット・南アフリカ」だけ。旅行前に英語と格闘する羽目になった。ブルートレインも、「南アフリカの豪華列車」という情報しか持ち得ていない。運行日程も、金額も知らず、もちろん予約の術もない。今考えるとかなり無謀な挑戦としか言いようがない。
シンガポール経由でヨハネスブルグに早朝に到着し、翌日に切符を購入・即乗車という、かなりの綱渡り乗車と相成った。
駅コンコースにライフル携行の警備員
ヨハネスブルグ駅の広いコンコースを緊張しつつ歩く。というのも、要所要所に立っている警備員の肩にはライフルを抱えているからだ。暴動・トラブルを警戒してだろうが、あまり落ち着かない。駅周りの風景を楽しめる雰囲気はなかった。
ブルートレイン乗客のためのブースに向かい、チェックイン・荷物預けを済ませる。オレンジシュースを飲んでひと休憩することにしよう。
いざ、乗車
係員が乗車の誘導を始める。乗客は荷物を預けた分、身軽だ。客車の横顔は日本の20系客車を豪華にした雰囲気。窓枠が金色に縁どられている。先頭まで歩いて、機関車を見ることにしよう。電気機関車自体は特に感慨深いものはないが“B”のエンブレムが誇らしげだ。
我々が乗車するのは15Eというコンパートメント(個室)で、ソファーが線路に直行して鎮座し、対になる形で1人用のソファーがテーブルを挟んである。長いソファーが夜は1人分のベッドになるのだろう。
しばらくして、ウエルカムシャンパンがサーブされてきた。アルコールに弱いものの、ここは頂くことにしよう。炭酸がすぅーと喉を通り抜ける。11時40分(10分遅れ)、静かにヨハネスブルグ駅を出発する。
豪華な車中と、車外の荒れようのギャップが激しい
南アフリカはアパルトヘイトで悪名高かったが、貧富の差が極端な国であったともいえる。車窓からはバラックの集落が見える。遠くには金採掘の残骸のボタ山も見える。車中に目を移すと、フカフカのソファとシャンパンが。いやがうえにも繁栄の光と影を考えてしまう。
ランチの案内があり、食堂車へ向かう。メニューは左にアフリカーンス語と言われる現地語、右に英語が記されている。前菜はサーモンのフィレンツェ風とある。なんのこっちゃ。ホウレン草を用いた料理をフィレンツェ風というらしい。メインはカモ胸肉のレンズ豆ピューレがけ。先輩は羊肉のステーキを注文した。上品で、おかわりしたいほど。あまり飲めないのに、有名だということで南アフリカ産のワインも飲む。案の定、食後はソファーで昼寝と相成った。
高原の中を走る、走る、走る
南アフリカは高原国家。ヨハネスブルグだと標高が1700mもある。荒涼とした風景の中を列車が疾走する。大きな車窓からは羊の姿も見える。
豪華なのは廊下にカーペットが敷かれていることからも窺える。擦り足で歩くクセがあるので、乾燥した車内でカーペットの上を歩くと、静電気が体中にたまり、金属部分に触るとびりびりする。線路幅は1,067mmと、日本のJR在来線と同じ幅だが、鉱物運搬に用いられていることもあってか、路盤がしっかりしており、揺れの感じが少ない。おそらく台車もいいものを使っているのだろう。窓が大きいことも含め、そこかしこに贅沢さが感じられる。
日も暮れ、約1時間の遅れでキンバリーに到着した。キンバリーはダイアモンド採掘の跡地である「ビッグホール」があまりにも有名だ。ここで電気機関車からディーゼル機関車に交換した。
注:現在はディーゼル機関車牽引かどうかは不明。また、現在ではキンバリーで長時間停車して、.ビッグホール観光ができるようにダイヤが組まれている。
夕食の案内があった。ドレスコードがあるのでネクタイを締めて食堂車へ。パスタの前菜、ロブスターのロースト、フィレ肉ステーキ、デザートを食す。食後はラウンジカーでコーヒーをいただこう。
朝起きると山頂に雪が
夕食時にまたまたワインを飲み、朝までぐっすり眠った。起きて窓の外を見るとドラケンスバーグ山脈の山々が見える。山の上部には雪が。9月下旬の南半球だから早春とはいえ、まさか雪を見るとは思ってもみなかった。ワインの産地なだけに、ブドウ畑もあちこちで見かける。。
テーブルマウンテンが見えてくると
ちなみに、1992年当時はブルートレインはヨハネスブルグに停車していたが、現在は治安の関係で通過しているらしい。それだけ、相変わらずヨハネスブルグは危険な街なのだ。
風も強く、まさに「地の果て」と言った趣でした。少ない髪を風になびかせ、「バスコ・ダ・ガマもここを通ったんだ」と、意味もなく感慨にふけったものでした。サイモンズタウンに寄りましたが、当時はペンギンの営巣地といった雰囲気はなく、単なる海沿いの街でした。ちなみに実際のアフリカ最南端は喜望峰から東方に150キロほど離れたアグラス岬です。
ゲームリザーブとはサファリ保護区のこと。クルーガー国立公園に接したmala mala というプライベートゲームリザーブを訪れる1泊2日日のツアーに参加しました。夕方と早朝の2回、ジープで動物を探しまわる。ビッグ5と言われる5大希少動物(サイ・アフリカゾウ・ライオン・バッファロー・ヒョウ)のうち、サイ以外の4つはカメラにも収めることができた。
チーターやライオンを目の前にすると、「襲われるのでは…」と、何故か悪い予感が頭をよぎる(当然、何もないのだが…)。帰路はどういうわけかダーバン経由の回送の飛行機に乗せられ、先輩と2人で1機をチャーターしたような感じになった。
ビクトリアの滝
世界三大瀑布のひとつ。ヨハネスブルクのヤン・スマッツ空港(現O・R・タンボ空港)からブラワヨ経由で向かった。行き当たりばったり、かつ、何の情報もないので安易にビクトリア・フォールズ・ホテルに宿泊。英国調の正統派のクラシックホテルで、当時は最高峰のホテルだったはずだ。
ホテルの裏庭から、ビクトリアの滝へ直接行くことができる。乾季ではあるものの、スプレイを体中に浴びた。
なんと、ボーイング707
豪華列車はケープタウン行 宮脇俊三著 文春文庫
宮脇修三氏が乗車したのは1995年なので、私が乗車した時期より新しいが、当時のブルートレインや南アフリカの様子が垣間見える。
南ア共和国の内幕―アパルトヘイトの終焉まで(増補改訂版) 伊藤正孝著 中公新書
著者は元朝日ジャーナル編集長。1971年に潜入取材し、好まざる人として南アフリカ共和国に再入国できずにいた。アパルトヘイトが終わりを迎えるにあたり、氏が再度入国したことを増補改訂版で加えている。南アフリカ旅行中に時間があれば読もうと買っておいた。前述のとおり、ヨハネスブルク初日に襲われ、這う這うの体でホテルに戻り、この本を読んだ。すると、氏も、アパルトヘイト終了時の取材の際に、ヨハネスブルクで黒人に襲われているではないか。「旅行前に読んでいたら、南アフリカに来なかったろうなぁ」と、えらく落ち込んだことをかなり鮮明に覚えています。